何をしていいかわからない。
あの人に対しては何もできない。遠慮ばかりしている。
ただただそっと見守っているだけしかできない。
それが自分のスタンス。そう決めたんだ。
もどかしくてもどかしくてしんでしまいそう。
ー 日本語が不自由です。ー
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自分はただのクズでいいのだー。
他の人から見たら、道に外れた・意味のない「クダラナイ」ことでも、
私にとっては愉しい幸せなことなのだ。
反対意見もすごくよくわかるんだよ。
でもそれにいっしょうけんめいになってしまうのだ。
自分はこんな女だから。
何をしていいかわからない。
あの人に対しては何もできない。遠慮ばかりしている。
ただただそっと見守っているだけしかできない。
それが自分のスタンス。そう決めたんだ。
もどかしくてもどかしくてしんでしまいそう。
ひとつ、言われたことで思い当たるのは、
なぜ自分をそんなにさげすんでいるのか。
なぜ自分をそんなに安売りしているのか。
醜い自分だから受け入れられるわけないと思ってきたからなのか。
自分を大切になんて今更言われても、自分を大切にするなんてどういうことかわからない。
もう自分も30半ばだ。今更そういう年齢でもない。あまりにも色々ありすぎた。
何気なく昨冬鬱状態がきついときに吐き出してたflavaという日記のようなものを見てた。
大して書くことは続かなかったが。
そしたら1年前の全く同じ日に書いてたことが叶っていて驚いた。
まぁ、これはずっと前から思ってたことで、何年も前からデモで練習してたりはしてたんだけど。
この頃は本当につらくて何もやる気が起こらなかったから、敢えてこういう風に書いたんだと思う。
何かすることをみつけなきゃ、と思って。
このときに読んだ本で、「~したい」ではなく「私は~する」とか「私は~なる」もしくは「私は~することを知っている」「私は~なることを知っている」のように断定形で書くことがポイントらしかった。
要は自己暗示みたいなものだろう。そういうのちょっと胡散臭いなとも思いながら、その時は何にでもすがりたい気持ちだったので、その通りに書いてみた。
例え結果がどうであれ、どんなことでも「どうせできないだろう」と思いながらやるよりは、「きっとできる」と思いながらやったほうが、やっぱり多少なりとも良い方に向かうんではないでしょうか。
同じアパートの別棟に、アパートに住み着く猫たちを可愛がってるおじいさんが住んでいる。
前々から見かけていて気になってはいたのだが、この間猫を見に行ったときに、そのおじいさんと初遭遇した。
そこからおじいさんと会話する仲になった。ジブリ映画のような展開だ。
おじいさんは、私が知らない長い間のここの猫たちの歴史を語ってくれた。
猫たちはここでずっと産まれ継がれていって、亡くなったときもおじいさんが世話してきたそうだ。
おじいさんが住む部屋は1Kで、ここの猫たちを何代も見守ってきた間、ずっと一人暮らしだったのだろう。
だから私もおじいさんが気になっていた。
猫を可愛がる人は孤独なのかもしれない。私もそうだ。なぜなら彼らは自分に似ているから。
この写真の黒猫は夏頃から私に付いてきてくれるようになったが、いつまで経っても常に一定の距離をおいていて、近寄ることができない。他の猫はある程度すれば人間に慣れるのだが。
きっと人間に酷いことをされてきたのだろう。
俺に似てるね、お前。